「首里天加那志《しゅりてんがなし》の謁見を早めに終わらせられないだろうか?」 「よくわからんな」
「癇癪じゃねえよ」 (思うようにならないあなたに思い焦がれて、胸のもやもやが消えることはなく、いつも心を曇らせています)
「浅倉殿、すぐに御仮屋に戻れ。中納言様がご逝去なされた」 柳自身は「私は私の工芸美に関する思想に於て極めて孤独である。幸か不幸か私は先人に負ふ所が殆どない」と述べているけれども、すでに小野二郎氏が「民衆工芸——略して民芸運動の唱導者としての柳とモリスとの交渉は、影響関係というよりはむしろ深い血縁関係というべきものである。柳のモリスに関して発する言言からのみ、この関係を理解することはできぬ」と指摘しているように、たとえば柳が『中世紀への弁護』において、ゴシック建築を最高の綜合芸術であるとした説のまえには、おなじ趣旨を詳述した中世主義者モリスの『ゴシック建築論』があり、柳が昭和二年につくった「上加茂民芸協団」のまえには、モリスの共同制作集団の実験があり、柳の「|上手物《じようてもの》」に対する「|下手物《げてもの》」の美の強調は、「|大 芸術《グレート・アーツ》」に対して「|小 芸術《レツサー・アーツ》」の重要性を唱えたモリスの説を想起させる。モリスは柳が七歳のときに没しており、いうまでもなく柳の影響を受ける立場にはいなかった。一方、柳は無類の読書家であって、また白樺派以来の同志であった富本憲吉が早くからモリスに共鳴しており、かれについての文章を明治四十五年の美術雑誌に発表したりしていたのだから、その存在を知らなかった筈はなく、したがって国際的かつ歴史的にいうなら、柳の民芸運動は、モリスの工芸運動を日本において受継いだものと見られても仕方のないところがある。
女将は念を押して襖《ふすま》を開けた。途端、津波古が絶句する。薄暗い部屋の中に呆けた真牛が虚空《こくう》を見つめて座っているではないか。髪も着物も乱れ部屋には異臭が漂っていた。 津波古は真牛の解放と引き替えに放火の大罪人になった。
尚泰王が頬をそっと真鶴の胸元に寄せる。寝苦しい熱帯夜の空気の中で瑞泉《ずいせん》の涼しさに浸っているようだった。この肌の奥にまだ何か秘密がありそうな匂いがする。王でさえ知ることのない秘密を持つ真鶴は神秘的な妻だった。 男は少し考え込んでから首を横に振った。
「父上、私がこの世に生を享《う》けた理由はこの日のためにあったのかもしれません」 「そりゃラッキーだな。奥さんきれいだから」そんな軽口をたたく。「その子、若旦那の息子さんだよね」